やる夫で学ぶ「法学者の統治論」
751
名前:普通のやる夫さん[] 投稿日:2025/05/09(Fri) 20:55:06 ID:a5c8a013
行政責任者の候補者は法学者評議会の推薦であって、実際には民衆の選任に任せるのは面白い
民衆の意思というのをサドルはどのように位置付けたのか
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名前:◆sSLW7aecKk[] 投稿日:2025/05/11(Sun) 18:59:46 ID:b79dd676
>>749
一言で言えば、民主的要素もある寡頭制という言い方が近いかもしれません。
政治的な責任と義務に関しては、本稿ではあまり触れなかったのですが、『イスラームと国家の基礎』に以下のようなヒントがあります。
合法的な国家の一部が無知によってイスラームに反している場合
→民衆は国家に対してイスラームの在り方を説明しなければならない。しかし、国家がその説明に納得できなくても
合法的な権力であればその命令に服さなければならない
政府が故意にイスラームに反している場合(イスラームからの逸脱)
→ムスリムは内戦をさけつつも、この政治権力を代替・廃止するようにしなければならない。
→代替・廃止が不可能な場合は、イスラーム規定に沿って、イスラーム法上の不法行為を防ぐことが許される
→ムスリムは政府に対する服従の義務がなくなる ただし、国家の危機(戦争等)の場合は、逸脱に関わらず共同体を防衛する義務がある
つまり、政治的な責任を「イスラーム的国家の設立と運営」と見なすならば、その義務が果たせないときに、抵抗権・革命権は認めていることは確かです。
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名前:◆sSLW7aecKk[] 投稿日:2025/05/11(Sun) 19:00:58 ID:b79dd676
>>749 続き
では、具体的にどのような手段をもってして、民衆は国家ないし法学権威に対して責任を取らせることが出来るか。
『イスラーム共和国憲法案のための法学的な予備考察』では2つの機構について存在が示されています。
①イスラーム法の違反を問うことができる「最高裁判所」
②国家、行政が行ったことに対する不服申立機関「マザーリム庁」 ※イスラーム法における行政裁判所
この2つの設立によって、民衆は一定程度国家に対して責任を問うことができるとされています。
しかし、この2つの機構の設立そのものが、法学権威の任務とされていることも考えると、どこまで実体性を持つ機構かは怪しいところです。
754
名前:◆sSLW7aecKk[] 投稿日:2025/05/11(Sun) 19:02:04 ID:b79dd676
>>751
結局、民衆の意思とは何か これについては『イスラーム共和国憲法案のための法学的な予備考察』からいくつか見えてきます。
まず、サドルは以下のように民主制について述べています。
「イスラームは王政を否定し、全ての個人支配も否定する…
イスラームの理論が提案する政治体制の全ては民主政体に含まれる肯定的な諸側面を全て含むがそれは形態では実質に関わる違いがあり……」
これはどういうことか続く文章に以下のようにあります
「民主的政体では憲法が全て人間が作り、それは理想であっても多数派による少数派の支配を意味する
一方で、イスラームでは憲法が神が不変性を保証し、その意味で(人類は)人類は公平である」
このことから、サドルはイスラームも民主的であるが、西側は人治である以上は法の下の平等は不可能であると指摘し、
イスラームであれば、神の前には何者も平等であると指摘しています。
755
名前:◆sSLW7aecKk[] 投稿日:2025/05/11(Sun) 19:02:51 ID:b79dd676
>>751 続き
さて、このように民主的な要素を肯定した上で、民衆の意思とは何か。
『イスラームと国家の基礎』には以下のような記述があります。
「イスラーム国家はイスラームの原則に反せず、イスラームやムスリムの公益と最大に合致しなければならない……
ムスリムがイスラーム意識を持ち、社会的・国際的状況を認識しているならば、イスラーム国家における統治機構の選択や選出をできる。
この場合は、イスラーム法上成人した男女全てが同等の権利を有する。
しかし、ムスリムがイスラーム意識が欠如し、社会的・国際的状況を認識出来ないならば、
その状況を改善出来るまで、イスラーム法と公益に精通した ダアワ党が指導的立場に立つべきである」
どこか社会主義における前衛党の議論と似たような話が出ていますね。
サドルは確かに民衆の意思を指摘しますが、これそのものを法学権威の立場とはリンクさせていません。
あくまで、立法権・行政権はウンマ=民衆のものだとしつつも、それをイスラーム法の権利にまでは拡大していない。
このことから、サドルにとって民衆の意思は、基本的に立法・行政でのみ提示すべきものと限定的に考えていたのではないでしょうか。
これはイスラーム法=ウラマー、行政=ウンマ(共同体)という古典的なイスラーム法の主権の理解にも重なります。
756
名前:普通のやる夫さん[sage] 投稿日:2025/05/11(Sun) 20:20:26 ID:d8622c2d
乙です
現代に適応するために変革の必要性を実感しつつも
動かしがたいイスラームの基礎とのすり合わせには苦労してる様子が窺える
757
名前:普通のやる夫さん[] 投稿日:2025/05/11(Sun) 20:45:10 ID:7f24b8fc
イスラーム法の範囲内であれば民衆の意思を尊重するってわけか
ただし逸脱がないように、イスラーム的理解が普及してない場合は法学者が指導すると
ウラマーと民衆は神の下、基本的に対等ってのは他の宗教には見られない特異点かもしらん
大抵、宗教が政府に絡む場合は宗教者の立場って権威化してアンタッチャブルな存在に変貌するからなぁ
758
名前:◆sSLW7aecKk[] 投稿日:2025/05/11(Sun) 20:55:40 ID:b79dd676
長々と説明しましたが、
ホメイニーは法学権威が単独で国家を運営すること「目的」にしているのに対して、
サドルは法学権威が国家を運営することを「手段」として捉えている傾向が強いと思います。
ホメイニーは、イスラーム革命を起こし法学権威が国家を運営する形式が整えば、それすなわちイスラーム的であるとしているのに対して
サドルは、単に革命を起こし、法学権威が国家を運営する形式のみならず、その後どうすればイスラーム的になりうるかを提案している。
だから、ホメイニーは反イスラーム的とされる民主主義を批判することに力点を置けばいいのですが、
サドルは単に批判するだけでなく、如何に民衆をイスラーム体制に取り込むかという部分にも力点が置かれているのでしょうね。
イスラーム思想研究者の間では、サドルの評価が高いのも頷けます。
ホメイニーは卓越した運動・革命家ではありますが、思想家としてはサドルの方が広範かつ緻密な議論をくみ上げています。
759
名前:普通のやる夫さん[sage] 投稿日:2025/05/11(Sun) 23:51:39 ID:f0006be1
>イスラーム思想研究者の間では、サドルの評価が高いのも頷けます
そらそうだ
現実を見ているかどうかという点で両者の差は歴然