テストⅢ

レス数:1000 サイズ:1678.1 KiB 最終更新日:2018-09-22 23:31:11

986  名前:普通のやる夫さん[sage] 投稿日:2018/09/13(Thu) 18:24:15 ID:ae719d87
 ともすれば、台所で使われるテクノロジーが今日でも生死に関わる問題であることを、私たちは忘れが
ちだ。この主な二つの料理行為、切ることと加熱することは危険な行為だ。人類史の上で料理はずっと過
酷な労働だった。狭い場所で汗と煙にまみれながら危険を覚悟で従事する仕事であって、世界の多くの地
域でまだこうした労働環境が続いている。世界保健機関によると、室内で燃やす料理の火から出る煙で、
毎年発展途上国では一五〇万人もの人が亡くなっている。ヨーロッパでも何世紀もの間、覆いのない直火
の調理暖炉で多くの死者を出してきた。とくに女性の場合、煮えたぎる大鍋の上に無防備に身をかがめる
と、直火が風をはらんだスカートや垂れ下がる袖に引火してしまう危険があった。一七世紀まで、裕福な
家庭で働くプロの料理人はたいてい男たちと決まっていて、焼けつくような熱い台所で下着一枚か裸にな
って料理を作った。女たちはもっぱら乳製品の加工と食器洗い専門で、これならスカートをはいていても
さして支障がなかった。
 一六世紀から一七世紀にかけてイギリス史上最大級のキッチン革命が起こった。煙を外に出すレンガの
煙突と鋳鉄製火格子の登場である。熱源のこの新たな制御システムと合わせて、一連の新しい台所用品が
お目見えし、突如、台所は脂ぎった汚い場所ではなくなった。黒く煤けた鋳鉄の鍋が姿を消し、光り輝く
真鍮と白目〔錫と鉛の合金〕製の鍋がその後釜に座った。社会に及ぼした影響も絶大だった。ついに女性が
自分で火を熾さずとも料理できるようになった。覆いの付いたレンジが当たり前の世の中になって三〇年
ほど経った頃、女性が執筆した女性向けの最初の料理書がイギリスで出版されたのは偶然ではない。
 料理道具が世に出回る時は単独ではなく、一挙にどっと登場する。道具が一つ発明されると、その道具
を補助するために次々と新たな道具が必要になる。電子レンジが発明されると電子レンジでも使える食器
やラップが誕生した。冷蔵庫ができるとたちまち製氷機が必要になった。焦げ付かないフライパンには傷
をつけないフライ返しが必要だ。覆いのない暖炉による昔の料理法には、一連の料理テクノロジーが付随
していた――薪が手前に転げ落ちるのを防ぐ薪載せ台、パンを焼くための焼き網、火の前に置いて料理時
間を短縮させるための金属製の覆い、炙り焼きにした肉を回転させる焼き串回転装置、ものすごく柄の長
い鉄製お玉、穴あきスプーンにフォーク。暖炉による料理法が終わりを告げた時、関連のある料理道具も
すべて姿を消した。
19~20ページ

 新しい料理道具が登場すると、その目新しさが色褪せるまでつい夢中になってしまう。二〇世紀の人間
性心理学の祖アブラハム・マズローは、金槌しか持っていない人間には、世の中のものすべてが釘に見え
る言った。これと同じことがキッチンでも起こる。電動式ブレンダーを買ったばかりの人にとって世の
中のものすべてがスープに見える。
21~22ページ

 ヨーロッパ民話は空っぽの大釜[コルドロン]の亡霊に取り憑かれている。空っぽの冷蔵庫の昔版であり、飢餓の象
徴。ケルト神話で、大釜[コルドロン]は永遠の豊かさと完璧な知識を呼び覚ますことができる存在だ。鍋があるのに
中身がないのは窮乏の極みなのだ。
45ページ
(中略)
 大釜[コルドロン]を手に入れることは相当な出費だった。一四一二年、ロンドン在住のジョン・コールとジュリア
ナ・コール夫妻の主だった財産といえるものは重さ七キロの大釜[コルドロン]で、四シリングの値打ちがした(当時
の土鍋の値段は一ペニーほど。一二ペニーが一シリングに相当)。買うか物々交換で手に入れた金属製鍋
は、何度も修理を重ねて長持ちさせた。穴があけば鋳掛屋に金を払って修繕してもらった。一八五七年に
北アイルランド、ダウン州の沼沢地で発見された青銅製の大釜[コルドロン]には、修理の跡が六か所あった。小さな
穴はリベットで塞がれ、大きな穴は溶かした青銅を埋め込んで補修されていた。
 大釜[コルドロン]は何でも作れる理想の料理道具というわけではなかった。それでも、一度台所に据えると、毎日
の炊事の中心的存在となった(小さな土鍋は補助的に使われた)。
(中略)
 一つの鍋で作る制約を受けながら、人々は創意と工夫で料理の幅を広げた。綿モスリンの袋に野菜、ジ
ャガイモ、プディングを別々に入れ、鍋の湯でゆでれば、一つの鍋で一度に複数の料理ができた。プディ
ングはキャベツの味がして、キャベツはプディングの味がしたかもしれないが、それでもスープ一辺倒の
食事から脱却できた。
45~46ページ

『キッチンの歴史――料理道具が変えた人類の食文化』より。